ロコモコーポレーション(藤本さん)
11月1日(火)の朝に出国,夕刻にプノンペンに到着。
11月2日(水)プノンペン経済特区の視察,上松祐士さんから説明を受けました。
そのあと,シアヌークビル市へ移動し,建設中の経済特区を視察。日本のODAによる開発の説明を受けました。いずれの経済特区も日本のODAによって開発が進められ,2011年から12年にかけて多数の日系企業の進出が予定されつつあります。
シアヌークビル港の経済特区についてはまだ日系企業の契約が成立していません。ODAによる円借款を返済するため,土地利用料金が他の地域と比較して高くなっているからだとのことでした。経済特区以外でも工業用地の契約は可能ですが,経済特区であるからこそ,税制,輸出入の手続きが簡便化されており,電気や上下水の完備もあります。
シアヌークビル港経済特区
11月3日(木)には,再びプノンペンへ移動し,まず,Cambodia-Japan-Business-School,NGOを訪問しました。ここでは,代表の土居清美さんと学生の皆さんと話をすることができました。土居さんは,カンボジアの若者から問われても答えに窮する問題として,「日本はとても豊かな国であるはずなのに,どうして自殺者が多いのか」,この問いに答えてやってほしいと投げかけられました。
私は,「日本が社会全体として経済的な豊かさが実現できたことは事実だが,逆に個人にとっては経済的自立が強いられるようになったこと,あらゆるものがお金で購入できるために家族や友達に頼ることがはばかられるようになり,日本の人びとは“孤立化”してしまった。ひとりでなんでも乗り越えなければならないというプレッシャーが孤独な一人ひとりを追い込んでいる。だから自殺が増えているのだと思います」,このように応えました。
その後,カンボジア経済評議会を訪問し,JICAの今村氏から懇切な説明を受けました。そして,夜にはJETROの道法氏を招いて,ヒアリングを実施しました。
カンボジアの人件費は,月給70~80ドル,タイの200ドル,ベトナムの130ドルと比較しても半額近く,きわめて安いことが工業立地のメリットです。
治安も安定しています。他の東南アジアとは異なり,物乞いをする子どもはほとんどいません。「いちば」では気さくで陽気な人たちと心を通わせることもできました。
11月4日(金),トゥール・スレン博物館でポルポト内戦時代に凄惨を極めた収容所を見学しました。1975年から79年の間にカンボジア人口の4分の1が殺戮されています。
子どもが自分の両親家族を殺す,密告による殺し合い,人びとの間には互いへの不信感と猜疑心が蔓延し,その傷はまだカンボジア社会のなかに残っているのではないでしょうか。ポルポト時代を知らない若者は無垢に見えますが,その歴史的な総括はまだ十分であるとは思えません。
11月5日(土)は,シムリアップで,アンコール遺跡群を観光しました。
11月2日,プノンペン経済特区
プノンペン経済特区で上松氏からその特徴を説明していただきました。
すでに味の素が操業を開始し,ヤマハも工場建設します。
移動中にであった農村の人たち
シアヌークビル港経済特区でのヒアリング調査
11月3日,NGO「カンボジア‐日本‐ビジネススクール」の学生たちは純朴,無垢な若者たちばかりです。
日本への憧れを抱いて,毎日,200名あまりの学生が働きながら勉強しています。
私たちは授業に参加して,代表の土居さんからカンボジアの教育や日本企業への期待について話をうかがいました。
カンボジア経済開発評議会
JICAの今村氏(写真中央)は,長年カンボジアの経済開発に携わってこられたツワモノ。
忌憚のないご意見を聞かせていただきながら,この人があれば,カンボジアでの日本企業の成功は間違いないと感じました。
11月4日,ポルポト政権時代,凄惨を極めた内戦,その収容施設であったトゥール・スレン博物館を見学。
Mr.Chum Meyは,収容所で生き残った4人のうちの1人です。私たちが見学していると幸運にも偶然,お出会いできて,短い時間でしたがお話を聞くことができました。
ロシア市場で,美味しいコーヒー店に入り,フルーツの王様ドリアンを食べました。
ドリアンは前日に買ってきていたものですが,ホテルに無理に頼んで保管してもらい,この市場でやっと食べることができました。
11月5日 アンコール遺跡群の1つ,タ・プロームとアンコールワット,アンコールトムを観光しました。
12世紀から13世紀にかけての遺跡群は当時の繁栄を物語っていますが,今ではガジュマルの樹木が覆い茂り遺跡の崩落が目立ちます。
水辺に映るアンコールワットで記念撮影
夕日を見ながらしばらく瞑想にふけってこの旅は終了です。