今朝,といっても現地時間では午前0時に目が覚めて,それから時差ボケの解消を考えつつ,執筆を始めました。深夜,といっても日本では朝の7時ですが,ひとりパソコンに向かいつつ執筆すると結構集中できました。
そして,午前3時頃には空腹を覚えて昨日持ち帰っていたピザを食べながら,また執筆。日本時間の10時ごろ,自宅へ電話をしたら次男が出てくれてしばらく話をしました。
異国での一人暮らしというのは初めてですが,結構な緊張があります。ともかく第1の目的である執筆を続けて,午前5時頃,時差ボケを解消するためシャワーを浴びてまた仮眠という工夫をしてみました。
午前6時45分に起床し,近くのパン屋へ出かけて,朝飯を調達,コーラーとパンを食べて,さて,いよいよゲーテインスティチュートへ向かいます。午前7時50分に到着,歩いて4分です。
午前8時から面接,筆記試験,ドイツ語での作文を書かされました。これまでなんとなく適当に単語を並べて話をし,相手の言葉もなんとなくわかっていたつもりが,試験となると違います。まるで入試問題さながらの問題が80問もあり,穴埋め問題を50分でやる。定冠詞と前置詞を入れる問題が大変でした。これまた雰囲気とこれまでに読んできたドイツ語のリズムをイメージしながら適当に?解答しましたが,とても時間が足らなかったこと,文意が3分の2程度しかわからないなど,出来の悪さをその場で実感したしだいです。
試験の後,クラス分けの説明を受けます。Lehrerin(女性の先生)の評価では,「初級でもなし,かといって中級でもない,どこまで理解しているのかよくわからない?」というあいまいながら適切なお言葉をいただき,「初級にしてください」とこちらからお願いしたところ,「途中でクラス替えをしてもいいかも」ということになりました。
ドイツ語の試験というものを初めて体験して,名詞の性(男性名詞,女性名詞,中性名詞,複数形)の格変化がこれほど繰り返し試されることに改めて基礎基本の重要性を教えられました。また前置詞についても,イディオムとしてちゃんと頭に入れておかないとだめですね。
このように初日の試験が終わって,午前10時には解放されて,目的の買い物へ出かけました。
幸いにして今日は月曜日,ほとんどすべての店が開業しています。電気店を教えてもらって,アダプターを求めたところ,電源アダプターではなくパソコン用の電源コードを売ってくれました。「うちにはこれしかない」とのことで,2.5ユーロで買いました。店主にスーパーマーケットはどこですか,と尋ねたらとても親切に道を教えてくれて,コーヒー豆,ドリッパー用のペーパー,チーズ,ハム,ソーセージ,トイレットペーパー,ヘアドライヤー,ゴミ袋,掃除用のモップ,ぞうきんなどを買い込んで55ユーロを使いました。シャンプーは髪も身体も洗えるものが簡単であろうと思い,近くにいた女性に,「das Shampoo in der Kleine Flasche(小さなボトルのシャンプー)を探しているのですが」とたずねてみると,確かに小さなボトルですが2本セットを勧められました。「安くなっているよ」とさらに勧められて2本も買ってしまったしだいです。少々一度に買い込みすぎたと悔やみつつ,10キロ以上の荷物を抱えてアパートへ戻りました。
12時半ごろに買ってきたパンとハム,そしてやっとまともなコーヒーを入れて昼食。
さて,そろそろまた散策に出かけます。
2011年3月28日月曜日
2011年3月27日日曜日
ドイツでの仕事
2011年3月26日にドイツへ渡航しました。
これから4週間はシュヴェービッシュ・ハルという古い町に滞在して仕事をします。
ドイツの町はどこも美しく整っているのですが,この町はとくに古い家並みが大切に使われていることで有名です。
これから4週間はシュヴェービッシュ・ハルという古い町に滞在して仕事をします。
ドイツの町はどこも美しく整っているのですが,この町はとくに古い家並みが大切に使われていることで有名です。
2011年3月10日木曜日
われわれはどんな経済社会を目標としているのか。
さて,今回は経済社会学を考える目的設定をしておきたいと思います。
「われわれはどのような経済社会を目指しているのでしょうか」。
はじめに,社会保障の問題から考えてみます。
1970年代から「福祉国家」と「福祉社会」という2つの言葉が行き交ってきました。
「福祉国家」を構築するというのは,行政システムの責任と役割として「完全雇用」をめざし,さらに「経済成長」を実現し,市場の失敗には社会保障を通じて生活保障を約束する,という構想です。
しかし,国家財政の破産と画一的な行政サービスでは行き届かない社会的課題が認知されるなか,70年代末から「福祉社会」が提唱され始めました。そこでは,地域コミュニティのなかでのさまざまなボランティア・グループやNPOなどに期待が集まっています。とくに95年の阪神大震災の経験(ボランティア革命といわれるほど多くのボランティアが被災者を救済しました),その実績に勇気づけられて,「福祉社会」のイメージが膨らみ,コミュニティのなかで,安い費用で,多様な必要性(ニード)にきめ細かく対処する役割が期待されるようになってきたわけです。
私は,「福祉国家」という行政の役割と「福祉社会」という方向性は間違ってはいないと思います。問題は,そのバランスにあります。
今,年金や医療保険,介護保険は,「いつまで持続可能なのか」。これらの制度を維持するために消費税の増税を含めて「今後どれくらいの負担増加が必要となるのか」が問題になっています。
2009年度ですでに年金給付総額は50兆3000億円になり,後期高齢者の医療費だけで10兆4273億円,介護保障に約8兆円も投入する,これに対して,2011年度の国の一般会計における文教予算は5兆5千億円にすぎません。子ども手当や保育園の増設を加えてみても,世代間のバランスを大きく欠いた再分配になっています。
さらに,高齢者の生活保障に莫大な再分配を行いながら「まだ施設が足らない」との声が上がり,一人暮らしの高齢者の孤独や孤立が社会問題として取り上げられます。
他方,若者の3人にひとりが「不安定就労」を余儀なくされ,実質賃金の低下が観測されています。
また,NHKの取材と報道を通じて,2010年頃から「無縁社会」という社会問題も明らかにされてきました。豊かになったはずの経済社会で孤独や孤立感にさいなまれる問題です。自殺や孤立死,その原因とされる精神疾患(境界性気分障害),失業問題,家族との絶縁などが,社会全体に広がっていることがわかってきたのです。
このような状況をみると,何か基本的なところで経済社会の在り方・考え方が間違っているのではないかと思います。あらゆる問題がパラドキシカルに見えてきます。
(1)充実した社会保障制度が完備されてきたはずなのに,その恩恵にあずかる人は明らかに偏っています。
(2)携帯電話は社会全体に広がっているのに,友達がいない若者が増え,孤独や孤立が社会的な病理現象といえるまで深刻化しています。
(3)衣食住はそろっていて(食糧は捨てるほど輸入しながら)結婚や子育てをする余裕がないのはなぜでしょうか。等々。
経済社会学の目的は,上で書いたようなさまざまな「社会問題」の原因を「経済社会全体の構造と原理」を考えながら明らかにすることです。
①資本制経済の構造とその力学がもたらす問題を再認識しなおすこと。
グローバリゼーション,金融市場(マネー資本主義),資源・環境問題にどのような歯止めが必要かを真剣に考える必要があります。
②「福祉国家」の役割とその限界を再検討すること。
社会保障制度の考え方を根本的に見直す必要があります。
③「生きもの」として人間の本質を捉え直し,家族と地域のコミュニティを再構築すること。
少なくとも,これらの3つの柱を掲げて「経済社会全体の質的・構造的な分析」に取り組むことが重要な時代だと思うのです。
「われわれはどのような経済社会を目指しているのでしょうか」。
はじめに,社会保障の問題から考えてみます。
1970年代から「福祉国家」と「福祉社会」という2つの言葉が行き交ってきました。
「福祉国家」を構築するというのは,行政システムの責任と役割として「完全雇用」をめざし,さらに「経済成長」を実現し,市場の失敗には社会保障を通じて生活保障を約束する,という構想です。
しかし,国家財政の破産と画一的な行政サービスでは行き届かない社会的課題が認知されるなか,70年代末から「福祉社会」が提唱され始めました。そこでは,地域コミュニティのなかでのさまざまなボランティア・グループやNPOなどに期待が集まっています。とくに95年の阪神大震災の経験(ボランティア革命といわれるほど多くのボランティアが被災者を救済しました),その実績に勇気づけられて,「福祉社会」のイメージが膨らみ,コミュニティのなかで,安い費用で,多様な必要性(ニード)にきめ細かく対処する役割が期待されるようになってきたわけです。
今,年金や医療保険,介護保険は,「いつまで持続可能なのか」。これらの制度を維持するために消費税の増税を含めて「今後どれくらいの負担増加が必要となるのか」が問題になっています。
2009年度ですでに年金給付総額は50兆3000億円になり,後期高齢者の医療費だけで10兆4273億円,介護保障に約8兆円も投入する,これに対して,2011年度の国の一般会計における文教予算は5兆5千億円にすぎません。子ども手当や保育園の増設を加えてみても,世代間のバランスを大きく欠いた再分配になっています。
さらに,高齢者の生活保障に莫大な再分配を行いながら「まだ施設が足らない」との声が上がり,一人暮らしの高齢者の孤独や孤立が社会問題として取り上げられます。
他方,若者の3人にひとりが「不安定就労」を余儀なくされ,実質賃金の低下が観測されています。
また,NHKの取材と報道を通じて,2010年頃から「無縁社会」という社会問題も明らかにされてきました。豊かになったはずの経済社会で孤独や孤立感にさいなまれる問題です。自殺や孤立死,その原因とされる精神疾患(境界性気分障害),失業問題,家族との絶縁などが,社会全体に広がっていることがわかってきたのです。
このような状況をみると,何か基本的なところで経済社会の在り方・考え方が間違っているのではないかと思います。あらゆる問題がパラドキシカルに見えてきます。
(1)充実した社会保障制度が完備されてきたはずなのに,その恩恵にあずかる人は明らかに偏っています。
(2)携帯電話は社会全体に広がっているのに,友達がいない若者が増え,孤独や孤立が社会的な病理現象といえるまで深刻化しています。
(3)衣食住はそろっていて(食糧は捨てるほど輸入しながら)結婚や子育てをする余裕がないのはなぜでしょうか。等々。
経済社会学の目的は,上で書いたようなさまざまな「社会問題」の原因を「経済社会全体の構造と原理」を考えながら明らかにすることです。
①資本制経済の構造とその力学がもたらす問題を再認識しなおすこと。
グローバリゼーション,金融市場(マネー資本主義),資源・環境問題にどのような歯止めが必要かを真剣に考える必要があります。
②「福祉国家」の役割とその限界を再検討すること。
社会保障制度の考え方を根本的に見直す必要があります。
③「生きもの」として人間の本質を捉え直し,家族と地域のコミュニティを再構築すること。
少なくとも,これらの3つの柱を掲げて「経済社会全体の質的・構造的な分析」に取り組むことが重要な時代だと思うのです。
2011年3月8日火曜日
経済社会学について考えてみます
私は,経済社会学という学問を探究しています。経済社会学とは何か?実はこのことを考えるための舞台としてブログを始めようとしています。
言葉としては,「経済学」と「社会学」を合成したものに見えますが,この2つの学問はその基本的な考え方が異なります。少々乱暴ですが,ブログという初舞台ですから思いつくままに書いてみます。
「経済学」の考え方
経済学はミクロ経済学とマクロ経済学,マルクス経済学の3つの理論体系としてまとまっています。ミクロ経済学,つまり新古典派経済学の立場では「方法論的個人主義」にもとづいて市場での人間関係を数理モデルを使って表現する技術が体系化されています。他方,マクロ経済学は国全体,さらに国際経済を集計可能なデータを使う理論体系の構築を目指しています。両者に共通するのは「量的・機能的な分析」であることです。
これにたいしてマルクス経済学は資本制経済システムの仕組みを労働と資本が対立する「生産関係」の問題から明らかにします。マルクスは「経済的価値」を使用価値と交換価値とに峻別し,資本が所有する利潤,つまり「剰余価値」の源泉を人間労働そのものであることを明らかにしています。つまり,利潤が労働者からの「搾取」であることを論証した理論です。マルクス経済学は今では大学ではほとんど扱われていないのですが,雇用の不安定化と賃金水準の下方硬直性,さまざまな労働強化が深刻な労働問題を再び生み出している現在,今一度マルクス経済学の理論から現実をとらえなおすべき時代であると思います。労働市場において圧倒的に不利な立場にある被用者は,19世紀から20世紀初頭の労働運動の意味を考えるべきだと思います。
「社会学」の考え方
さて,社会学の方は,対象となる領域ごとにさまざまな研究フィールドが設定されているので,理論体系としてすべての社会学者が承認する体系化された理論にはなっていません。しかし,社会学の理論を学ぶのであれば,ぜひ富永健一(1986)『社会学原理』岩波書店をお勧めします。近代科学として成立してきた社会学の主たる理論がすべて体系化され,そのなかで富永先生の人間観と社会観が貫かれた名著であると思います。
もっとも私自身は,蔵内数太(1966)『社会学増補版』培風館をテキストに現象学的社会学を自らの理論的なベースとして位置づけています。残念ながら,蔵内数太のテキストは今ではなかなか手に入りません。古本で1962年版は入手でき,著作集で読むことができるくらいです。
富永社会学と蔵内の現象学的社会学は,ずいぶんと異なっています。本質的な相違点だけを紹介しますと,富永社会学では,「ミクロ社会学」と「マクロ社会学」が設定されています。とくに前者では「方法論的個人主義」に立った「相互行為」の集積から社会関係が説明されます。社会の本質をめぐって,富永は「現象学的な主観説」と「機能主義的社会学による客観説」の対比を踏まえながら,「客観的に実在する社会的事実」を前に出して,人の心的内面としての意識の作用という意味で「現象学的な主観説」を取り込みながら「主体―客体の相似性」(つまりは同じものであると)を定式化(富永p.16参照)しています。一言でいえば,「社会関係は客観的に存在している」と認めないことにはこれを分析したり,さまざまな社会制度,社会政策を議論することもできない」ということになります。
これにたいして,蔵内数太は,社会の本質をテオドール・リットの概念を用いながら「視界の相互性にもとづく体験事実」として定義します。現象学の基本的な認識方法を土台にするということは,すべてのことは「主観的」にしかとらえられていないということです。あなたと私の関係も,私の主観とあなたの主観がはたしてどこまで同じかは「体験事実」を通じて,それぞれが主観的に納得するしかないのです。私は,社会本質論としては,この蔵内社会学による理解が重要な意味を示していると思います。さまざまな制度や関係は,あたかも「客観的」に実在するように見えますが,お互いにそのように認め合っているだけであり,社会的地位や権力もそのように「相互主観的」に認め合っているだけのことです。この議論は,「社会関係力の貧困」が問題になり,精神的な病理現象が社会問題にまで深刻になっている経済社会において,社会とは私たち自身の「ものの見方・考え方」に左右される「現象」であり,誰かと心を通じ合える関係を育むには勇気をもって「体験事実」を積み重ねるしかないことを自覚させてくれると思います。
さて,初回からずいぶんとややこしい議論をしてしまいました。
私が理解している経済学と社会学はおよそ上記の議論を土台にしています。
しかし,「経済社会学」という学問についてはまだ何も議論していませんので,次回あたり(はたしていつのことになるやら)書いてみたいと思います。
言葉としては,「経済学」と「社会学」を合成したものに見えますが,この2つの学問はその基本的な考え方が異なります。少々乱暴ですが,ブログという初舞台ですから思いつくままに書いてみます。
「経済学」の考え方
経済学はミクロ経済学とマクロ経済学,マルクス経済学の3つの理論体系としてまとまっています。ミクロ経済学,つまり新古典派経済学の立場では「方法論的個人主義」にもとづいて市場での人間関係を数理モデルを使って表現する技術が体系化されています。他方,マクロ経済学は国全体,さらに国際経済を集計可能なデータを使う理論体系の構築を目指しています。両者に共通するのは「量的・機能的な分析」であることです。
これにたいしてマルクス経済学は資本制経済システムの仕組みを労働と資本が対立する「生産関係」の問題から明らかにします。マルクスは「経済的価値」を使用価値と交換価値とに峻別し,資本が所有する利潤,つまり「剰余価値」の源泉を人間労働そのものであることを明らかにしています。つまり,利潤が労働者からの「搾取」であることを論証した理論です。マルクス経済学は今では大学ではほとんど扱われていないのですが,雇用の不安定化と賃金水準の下方硬直性,さまざまな労働強化が深刻な労働問題を再び生み出している現在,今一度マルクス経済学の理論から現実をとらえなおすべき時代であると思います。労働市場において圧倒的に不利な立場にある被用者は,19世紀から20世紀初頭の労働運動の意味を考えるべきだと思います。
「社会学」の考え方
さて,社会学の方は,対象となる領域ごとにさまざまな研究フィールドが設定されているので,理論体系としてすべての社会学者が承認する体系化された理論にはなっていません。しかし,社会学の理論を学ぶのであれば,ぜひ富永健一(1986)『社会学原理』岩波書店をお勧めします。近代科学として成立してきた社会学の主たる理論がすべて体系化され,そのなかで富永先生の人間観と社会観が貫かれた名著であると思います。
もっとも私自身は,蔵内数太(1966)『社会学増補版』培風館をテキストに現象学的社会学を自らの理論的なベースとして位置づけています。残念ながら,蔵内数太のテキストは今ではなかなか手に入りません。古本で1962年版は入手でき,著作集で読むことができるくらいです。
富永社会学と蔵内の現象学的社会学は,ずいぶんと異なっています。本質的な相違点だけを紹介しますと,富永社会学では,「ミクロ社会学」と「マクロ社会学」が設定されています。とくに前者では「方法論的個人主義」に立った「相互行為」の集積から社会関係が説明されます。社会の本質をめぐって,富永は「現象学的な主観説」と「機能主義的社会学による客観説」の対比を踏まえながら,「客観的に実在する社会的事実」を前に出して,人の心的内面としての意識の作用という意味で「現象学的な主観説」を取り込みながら「主体―客体の相似性」(つまりは同じものであると)を定式化(富永p.16参照)しています。一言でいえば,「社会関係は客観的に存在している」と認めないことにはこれを分析したり,さまざまな社会制度,社会政策を議論することもできない」ということになります。
これにたいして,蔵内数太は,社会の本質をテオドール・リットの概念を用いながら「視界の相互性にもとづく体験事実」として定義します。現象学の基本的な認識方法を土台にするということは,すべてのことは「主観的」にしかとらえられていないということです。あなたと私の関係も,私の主観とあなたの主観がはたしてどこまで同じかは「体験事実」を通じて,それぞれが主観的に納得するしかないのです。私は,社会本質論としては,この蔵内社会学による理解が重要な意味を示していると思います。さまざまな制度や関係は,あたかも「客観的」に実在するように見えますが,お互いにそのように認め合っているだけであり,社会的地位や権力もそのように「相互主観的」に認め合っているだけのことです。この議論は,「社会関係力の貧困」が問題になり,精神的な病理現象が社会問題にまで深刻になっている経済社会において,社会とは私たち自身の「ものの見方・考え方」に左右される「現象」であり,誰かと心を通じ合える関係を育むには勇気をもって「体験事実」を積み重ねるしかないことを自覚させてくれると思います。
さて,初回からずいぶんとややこしい議論をしてしまいました。
私が理解している経済学と社会学はおよそ上記の議論を土台にしています。
しかし,「経済社会学」という学問についてはまだ何も議論していませんので,次回あたり(はたしていつのことになるやら)書いてみたいと思います。
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