2012年9月25日火曜日

2012年多可町菜種祭

2012年9月23日(日)多可町加美区,道の駅にて「菜種とれとれフェスタ」に参画しました。
学生流むらづくりプロジェクト「木の家」から14名,藤岡ゼミから4名,そして,神戸大学のジャグリング・サークル@ジャグ六からも応援に参加。
無農薬・有機栽培の菜種油です

神戸大学 ジャグ六のパフォーマンスも,春からずいぶんと上達!



 鹿は,西脇市の猟師さんから提供していただきました。ありがとうございます!
 木の家の学生は,4人で3時間かけて,鹿を解体し,肉の塊,スジ肉,骨にきれいに分けて,調理しました。なかなかできるものではありません。これまでの多可町観音寺での経験が,粘り強さ,集中力,ナイフを使う技能を高めてくれています。見事なものです。


 ロースト・ベニソン,ロースト・ボーン・スープ,スジ肉の時雨煮の3品を作り,菜種祭で「無料試食」。100名を超える方々に「田舎のフランス料理」としてご賞味いただきました。ちなみにこれらのレシピは,追手門学院大学名誉教授,藤原一郎先生に教わったものをベースにしています。

 西脇市の猟師さんが「首を討っているから,臭みの無い,最高の肉になる」と言われた通りです。
 鹿は脂肪が少なく,甘みがあり,よく煮込むと柔らかく,ほぐれます。
 その特性を生かして,ロースト,時雨煮ができました。骨は,セロリ,玉ねぎ,にんじん,ブーケガルニと一緒に4時間以上煮込み,岩塩だけで味を調えています。

 こうした調理方法を使って,獣害駆除とまちおこしができればと願っています。
 木の家の学生諸君,ゼミ生諸君の努力は実に頼もしく,無料で試食していただいた方からは,ログハウス建設のために寄付を頂きました,総額7千円を超えています。
「田舎のフランス料理」
 
 

多可町のコシヒカリはとても美味いのです
 
観音寺集落の婦人会と学生がお好み焼きと菜種油を使ったかき揚げを作りました。


 

神戸市内からお越しの人たち

 


2012年稲刈り実習

 2012年9月21日午後から22日に実習田での「稲刈り」を行いました。21日(金)の夕方に大雨が降り,田んぼは泥田になってしまったため,ぬかるみのなかでの稲刈りとなりました。
 八千代の柳山寺から木畑惣一さん(87歳)が今年も指導に来てくださり,ひとり1人の学生に懇切丁寧な指導をしていただきました。

3回生が木畑さん(柳山寺)から田んぼまで「なる」を運びました,

木畑惣一さんには,5年以上,毎年,稲刈り,脱穀のご指導を頂いています。


八千代の青位さん(有機養鶏場)で雨宿りをさせていただきました。

渡辺元校長先生も来てくださり,雨のなか女子学生を車で送ってくださりました。

稲刈り

泥田の稲刈りは重労働でしたが,道行く人が「ええ経験や!」と励ましてくれました。

 


 

関電 奥多々良木発電所

 2012年9月21日(金),兵庫県朝来市にある,関電,奥多々良木ダムを見学しました。
 日本最大級の「揚水式」発電施設です。
最大出力:193万2千キロワット,実際の発電では,最大130万キロワットを8時間/日
 原発1基分の供給力があり,毎秒100tの水で6台の発電機を動かしますから,毎秒600tが上のダムから下のダムへ流れ込みます。
 上のダム(黒川ダム)の貯水量は2,136万立方メートルですから,8時間でダムは空になるわけです。夜間,火力,原子力の電力を引き入れて,下から上へ水をくみ上げることになりますが,これには11時間必要です。
 エネルギー効率としては,当然のことながらマイナスになります。
 だから,「揚水式発電」は,火力,原子力などの基盤施設のバックアップとしてしか用をなさないとのこと。
 ちなみに,2011年にこの発電所が90%(120から130万キロワット)のほぼフル稼働したのは,3日~4日にすぎません。
 「原子力発電」の代替施設とはなりえないことがはっきりわかりました。

 私たちは,奥多々良木ダム発電所の田口所長さんに説明をしていただき,約2時間半にわたって設備の見学を行いました。
 火力発電に依存すると,炭酸ガス(温暖化)の問題が加速します。
 風力発電には,風力の制約と,設備の維持管理に莫大な費用が発生します。
 太陽光発電では,大規模な土地と施設が必要になります。
 原子力は,言うまでもなく,「危険」です。

 電力会社の技術者は,すでに稼働している施設設備を維持,監視するだけで,「本物の技術者」を養成することが難しくなっている,「コンピュータの画面操作」だけしか経験しない。
 将来の日本の技術者の養成がますます難しくなっているとのことでした。

 さまざまな課題が山積すること,電気エネルギーに過度に依存する産業社会の持続可能性の見通しは決して明るいものではないのです。


関電 奥多々良木ダム発電所PR館に到着

田口所長さんから講義を受けました。

上ダム(黒川ダム)からの景色
 
黒川ダム


地下にある発電施設へ


3相交流式発電機の説明を受けました。



 
「みのり館」にて昼食









2012年9月20日木曜日

「出生前診断」への経済社会学の視座


 2012916日,NHKは「出生前診断そのとき夫婦は」を放送した。出生前診断とは,ダウン症,二分脊椎症,無脳症の可能性が高い胎児を中絶する選択を可能にする技術である。この検査技術が広まる中で,われわれは,その社会的意味を考えなければならない。 

 障害者の立場からは,障害のリスクを抱えた胎児を中絶することは,今,生きている障害者の存在を否定することであり,同時に,障害者とその家族をひどく傷つけることである。この程度のことは,少し考えれば誰にでも分かるだろう。

 だが,現実には,障害者を抱える家族は「幸せになれない」かもしれない。だから,出生前診断によって,障害のリスクを抱える胎児を中絶することが「無難な選択」であり,スウェーデン,イギリス,アメリカ,フランスなどでは,それが「常識」となっている。こうした文脈で,障害者をもった胎児を「中絶」するのか,それとも「産み育てる決断」をするのか,という「生命の選別(優生学)」の是非が,われわれの日本社会にも問われている。

 現実的な問題として,この出生前診断をめぐる問題は「子どもの生命」と「家族の幸せ?」を天秤にかけることにみえる。これにたいして,NHKは「家族の結束(絆)」の行方に,その決断をゆだねる格好で番組を締めくくっていた。おそらくNHKとしては,「生命の選別」という倫理的問題は,それぞれの「家族の判断」だと,この問いそのものを投げ返すしかなかったのであろう。

 ここで経済社会学の立場から指摘しなければならないことは,「そもそも障害者が経済社会のお荷物であり,役に立たない,周囲を不幸にする」と思われている現実,つまり,障害者への偏見や差別をめぐる経済社会の有様そのものを問うことである。ましてや,障害(疾病)の可能性が高い胎児を殺すことが,国家権力によって推奨されたり,強制されることほど危険な発想はない。

 

 障害者と要介護高齢者

 この場では,別の視点から問題提起を行っておきたい。
 身近な問題として,要介護高齢者もまた「中途障害者」である。そこから次の3つの疑問が生じる。

 (1)「なぜ,障害者を介護,看護する家族は,経済社会にたいして“負い目”を感じ,高齢者を介護する家族は“賞賛”されるのか。」

 (2)「なぜ,高齢者に,介護保険と公的資金から9兆円を超える給付を提供しなければならないのか。」

 (3)「なぜ,障害者の利益を代表する集団は,介護保険制度の改善を通じて,要介護高齢者と障害者にとって平等・公平な社会制度を求めないのか」

 これら3つの疑問にたいして,さまざまな返答があるであろう。

 私は,とくに3番目の問題を考えることが,経済社会学にとって大きな課題だと考えている。障害者と要介護高齢者,健康に恵まれた人びとの間の壁,とくに障害者を守り育もうとする人びとが,特別な地位に固執してはいないであろうか。障害者問題を論じる人びとは,障害者の利益代表であることをはばからない。「障害者と健常者は,違う世界に生きているのだ」と障害児を育てるある研究者が言っていた。

 そうではなくて,障害者がおかれている問題と要介護高齢者への社会給付,そして,出生前診断に織り込まれる「優生学」(生命の選別)を「連続した地平」から考えなけれならない。そこから,われわれは経済社会の本質と新たな秩序の可能性を考えなければならないのではないだろうか。 
 障害者のサイドに立つ人びとには,福祉制度で手に入れた「既得権に固執する」のではなく,経済社会の全体の中で自らの存在意義と貢献を考えていただきたい。同時に「知的障害」「精神障害」「身体障害」の間にある壁と「誤解と蔑視の相互性」を乗り越えて,「連続した地平」から「視界の相互性」を追求する視座に立たねばならない。

 そのためには,まず,介護保険制度が,要介護高齢者のためだけにあることの問題から考え始めてはいかがであろうか。

2012年9月18日火曜日

世界各地で起こる暴動,内戦について考える


 今,日本にとっては,支那の各地での対日暴動をどのように受け止め,どのように対処すべきかが問題です。ただ,支那の問題は,日本の各メディアが伝えるように,すでに中国共産党の統治が破綻していることの裏返しです。近い将来,反日暴動は,中国共産党にたいする内乱・内戦になることが予想されます。
 日本人はできるだけ早く支那から引き揚げて,支那の内乱を静観することが望ましいでしょう。しかし,日本は,2011年だけで1兆円を超える対中投資を行っています。支那からの撤退となると,莫大な経済的損失を被ることは大きな痛手ではありますが,日本の資本が引き上げれば,中国共産党の破局は加速されます。

「大衆暴動の特徴」


 さて,こうした「大衆暴動」が頻発する原因は何でしょうか。

 そもそも,世界中で頻発する「大衆暴動」は,2011年の「アラブの春」と称された「民主化」を求める運動が発端です。当初,アラブの春は「民主化運動」として歓迎されました。しかし,ネットを通じた情報の伝播による「扇動」がエスカレートすると「暴動」となり,誰にも制御できなくなりました。
 こうしたネット上の「扇動」が大規模な大衆運動を世界中で巻き起こしています。一見すると,インターネット通信技術の普及が「原因」であると考えられそうですが,SNS技術は「原因」ではなく,問題の展開を加速する道具にすぎないと思います。

 むしろ,注意すべきことは,大衆暴動には「指導者が不在である」「明確な理念,原理がない」ために「制御不能」に陥るという特徴をとらえておくことです。

 どうして,こんなことになるのでしょうか。

「制御不能な集団力学」


 21世紀の大衆社会では,誰もが自動車,家電製品,携帯電話,パソコンを使う「豊かさ」を享受しながらも,同時に,それぞれのレベルで,生活困窮,不安,ストレスにさらされています。「豊かな産業社会」のなかでのやり場のない生活への不安,不満,憤懣,ストレスの蓄積が,暴動のエネルギーになっています。方向性を持たない大衆暴動の特徴として,これに参加している人たちの間に「連帯感」や「共通の目標」への意思,互いの共感,相互理解を見出すことができません。彼らは,ただ,むしょうに「腹が立っている」。「指導者が不在」で「誰にも制御できず」「理念もない」ために,先行きの見通しがまったくないのです。
将来のビジョンを描くことができないので,すぐさま集団的な暴力が爆発します。このような暴力の連鎖があちこちで発生するとなると,経済社会の秩序を回復することは容易ではありません。世界中で暴動が拡大して,21世紀の遠からぬ時期に,産業文明そのものが破綻してしまうかもしれません。
 
 今や経済社会を支えるべき倫理規範が破られ,邪悪な思想がまかり通っています。ここまで人間を腐らせているのは,現在の「経済社会の原理」(基本的な考え方)に問題があるからだと思います。

 

「理念のない政治状況」


 私たちは,この憂うべき社会現象を,日本の政治状況と重ねて考える必要があると思います。

 20世紀までの政治・社会運動は,何らかの理念や原理を掲げることで,一定の方向性をもっていました。しかし,今,世界中で巻き起こっているデモや暴動には,まともな理念,原理がありません。同じ意味で,日本の政治家に「将来の経済社会へのビジョン」はありません。経済社会としてのあるべき姿,秩序像を形成するための「理念」,経済社会を統御するためのシステムのあり方,つまり,「経済社会の原理」への構想が不可欠です。「理念」「原理」への構想がなければ,社会問題や課題をどのように克服,達成していくかという具体的な取り組みは不可能です。

 したがって,まず取り組むべきことは,新たな経済社会のビジョンを構築することであり,それが「経済社会学」の課題だと思います。
 「人格の自由と自己実現」のために,われわれは何をモットーとして生きるべきか。「社会の本質」をとらえなおして,どのような経済社会システムを構築していくべきかという新たなビジョンを描かねばなりません。それらの具体的な方向性を,各人が考え,判断し,実践することが必要です。こうした問題意識をもって書いたテキストが,『社会政策のための経済社会学』(高菅出版)です。

 私は,経済社会の「新しい秩序構想」は,さまざまな実践からぼんやりと見え始めているように思います。
 所得や消費の最大化,カネ・地位・名誉への欲望よりも,大切なものは何か,何が「人格の自由と自己実現」につながるのか,という発想は,いろいろな舞台で輝き始めているのではないでしょうか。さまざまな取り組みから学びながら,経済社会の「新たな秩序構想」を描きはじめて参りましょう。

2012年9月10日月曜日

悪魔の集団力学「イジメ」

   2012年,滋賀県大津市の事件が契機となり,イジメによる自殺が相次いで報道されています。イジメ問題が今に始まったことではないことは周知のことです。
 14年前,98627NHKが教育テレビで「少年プロジェクト特集」を放送しました。私は,この番組をみながら,987月,ここに掲げた「悪魔の集団力学」という表題でホームページに小論を掲載したことがあります。
 当時,私は,兵庫教育大学で教鞭をとりながら,教職員のあいだにも「イジメ」「ハラスメント」が多発しており,他人事とは思えない観点から,「イジメ」という集団現象を「悪魔の集団力学」として議論したものです。
 およそ20年以上も「イジメ」という集団現象は,多くの人を苦しめ,死に追いやりながら,「誰も責任をとらないまま」繰り返され,今では,経済社会の隅々まで蔓延する社会病理となりました。
 今,改めて,この問題についての私なりの整理をしてみます。

まず,イジメという集団現象は,子ども社会に限ったものではないことを改めて確認しておく必要があると思います。小・中学学校だけではなく,高等学校,大学,そして一般社会,地域社会にも広がっています。元をただせば,「むら社会」の生贄(いけにえ),「村八分」の集団力学がそのルーツだといえるでしょう。

l  現代のイジメ問題の特徴


イジメ問題の特徴を以下,4つの点に整理しておきたいと思います。
1)「隠蔽された暴力」であること。一方的な迫害,虐待を集団で行うものである。
2)「死ぬ」まで追い込む,思いやりや慈しみは一切顧慮されない「残虐性」。
3)誰にも止められない「集団力学」,そこでは教員さえも「加担」する。

「教師さえも、イジメに加担している」というのは、教師もその集団力学に巻き込まれてしまっているからです。何しろ、教師もイジメの対象になります。
  もしイジメられている生徒を庇い,守ろうとすれば,即座に,自分(教師)がイジメの対象とされる。むしろ,教師が生徒と一緒になって,イジメに加担しているケースが多いのではないでしょうか。
  世間一般には,自分のクラスでイジメ問題が起こると,教師としての自分の評価に障りがあるという卑屈な教員も少なくないからだとの報道もあります。これもまた「教員社会での集団力学」が働いていることを示しています。
  だから、これは決して子ども社会の現象で済ますわけにはいかないのです。

l  イジメの力学構造

  イジメの①首謀者と、②彼を取りまき、はやし立てる煽動者、③無関心を装う傍観者の3者が加害者側です。これにイジメられる④被害者の設定を加えることによって、イジメの集団現象としての構造が確立します。
 そこで注意しなければならないのは、「首謀者,扇動者、傍観者」のいずれもが、逆に,いつ自分も④被害者にされるかわからないという危険があることです。ここに4つ目の問題があります。

4)被害者は「生け贄」「偶然のスケープゴート」「身代わり」にすぎない。
 「いつ自分が身代わりにされるかわからない」というリスクを前にして、イジメの行為に歯止めをかける「正義の味方」を演じられるものは、今の社会にどれくらいいることでしょうか。
 そこで支配しているのは、論理ではなく、雰囲気であり、集団内の「空気」のようなものでしょう。KY(空気が読めない)ということが「鈍感さ」として攻撃されることも,実は,同じ「集団力学」に支配される経済社会の病理の一端を現しています。
 実は,「イジメられる根拠は何もない」のです。たまたまイジメが始められ、いつしかそれは自分のコンプレックスを原因と思いこまざるをえない状況に追い込まれ、さらにそのコンプレックスを周囲に知られるや、またまたそれが理由づけとなり、ますますイジメられる、という展開が続くのです。
 イジメ集団には、何の原理、原則もない。ただ誰かを「身代わりに」「生け贄」に仕立て上げることだけを目的関数とする集団です。だから、これに立ち向かうことは、その集団に所属する者にとっては「原理的に不可能」だとの言い訳さえなりたちます。
 まるで悪魔に操られる集団ではないでしょうか。そこには一切の正義は認められません。誰も自分の行為をコントロールできない。集団力学に左右され,イジメる根拠となるような積極的原因は何もないから、正義もない。あるのは悪魔的な残虐性だけです。
 

l  「個人主義」が「個性を喪失させる」パラドックス


 自分のアイデンティティとは何か、というとき、少なくとも今は「イジメられていない」「イジメを傍観している」「結果的にイジメに加担している」「ただ無性にイジメてしまっている」だけなのでしょう。しかもその立場はいつ入れ替わるか、誰にも予測できないのですから、アイデンティティや個性と呼べるようなものは誰も持ち合わせていません。誰も「自分の信念」を育てられないのです。
 無意識にイジメに加担している教員も、実は「教員」という立場を辛うじて演じているだけの、匿名集団のひとりにすぎないといえるでしょう。
 そして、イジメられている側も,この集団力学に支配されている以上、自分の人格,自らのアイデンティティが育てられていないことがわかります。

以上の見解は,98年のNHKの番組を見ながら考えたことです。
 当時の番組の中で,イジメ被害者である生徒たち、その発言はあたかも「ひとり」の同じ人間の感じ方、考え方かのように類似し、没個性化したものに見えました。
 イジメの加害者である生徒たちの発言を聞いても、そこには何の根拠もない。身勝手で、相手の気持ちを無視する「悪魔的な妄想」にだけ捕らわれている、という印象を受けたのです。そこにも何ら人格性やアイデンティティは感じられません。
 そこから私が見たものは、イジメとは「悪魔的な空気に支配された集団力学」であり、その集団には何のアイデンティティも、独自性もないということです。
 彼らは、目に見えないストレスのはけ口だけをもとめているのです。何も考えずに、せめて自分は「生け贄」にされまいと、集団に振り回されている、没個性的な、それでも自分のことだけしか頭になく、それが「個性」だと誤解しているのです。
 まさに,現代の経済社会にいる,大多数の「われわれ」ではありませんか。

l  「個性」や「自由」だけを土台にした教育の誤り

学校教育の舞台では、これまで「個性をのばす教育」がしきりに追求されてきました。画一化された受験戦争に対して、ひとりひとりの「個性」を大事に、大事に、育てましょうと訴えられてきたわけです。
  しかし,その「個性」さえ、市場経済における「商品」のように一定の規格をクリアして、その枠内での「個別性」「製品としての特徴」にすぎません。
 「教育現場の役割」は、個性、個別性の追求のすえに、社会的な規範や秩序、精神を否定し、徹底した「個人主義」と「個人の自由」を教え込むだけの結果に終わっています。だから,イジメがますます広がるのではないでしょうか。

l  本当の「自由」と何かを今こそ考えなければならない


イジメを許さない,勇気ある自由。

自分の信念を貫く,失敗を恐れない自由。

他者の評価に惑わされない,自由な精神。

「ここ,今」を大切に生きる自由。

本物の自由を獲得するための「生き方」が問われている時代だと思います。