14年前,98年6月27日NHKが教育テレビで「少年プロジェクト特集」を放送しました。私は,この番組をみながら,98年7月,ここに掲げた「悪魔の集団力学」という表題でホームページに小論を掲載したことがあります。
当時,私は,兵庫教育大学で教鞭をとりながら,教職員のあいだにも「イジメ」「ハラスメント」が多発しており,他人事とは思えない観点から,「イジメ」という集団現象を「悪魔の集団力学」として議論したものです。
およそ20年以上も「イジメ」という集団現象は,多くの人を苦しめ,死に追いやりながら,「誰も責任をとらないまま」繰り返され,今では,経済社会の隅々まで蔓延する社会病理となりました。
今,改めて,この問題についての私なりの整理をしてみます。
まず,イジメという集団現象は,子ども社会に限ったものではないことを改めて確認しておく必要があると思います。小・中学学校だけではなく,高等学校,大学,そして一般社会,地域社会にも広がっています。元をただせば,「むら社会」の生贄(いけにえ),「村八分」の集団力学がそのルーツだといえるでしょう。
l 現代のイジメ問題の特徴
イジメ問題の特徴を以下,4つの点に整理しておきたいと思います。
(1)「隠蔽された暴力」であること。一方的な迫害,虐待を集団で行うものである。(2)「死ぬ」まで追い込む,思いやりや慈しみは一切顧慮されない「残虐性」。
(3)誰にも止められない「集団力学」,そこでは教員さえも「加担」する。
「教師さえも、イジメに加担している」というのは、教師もその集団力学に巻き込まれてしまっているからです。何しろ、教師もイジメの対象になります。
もしイジメられている生徒を庇い,守ろうとすれば,即座に,自分(教師)がイジメの対象とされる。むしろ,教師が生徒と一緒になって,イジメに加担しているケースが多いのではないでしょうか。世間一般には,自分のクラスでイジメ問題が起こると,教師としての自分の評価に障りがあるという卑屈な教員も少なくないからだとの報道もあります。これもまた「教員社会での集団力学」が働いていることを示しています。
だから、これは決して子ども社会の現象で済ますわけにはいかないのです。
l イジメの力学構造
イジメの①首謀者と、②彼を取りまき、はやし立てる煽動者、③無関心を装う傍観者の3者が加害者側です。これにイジメられる④被害者の設定を加えることによって、イジメの集団現象としての構造が確立します。そこで注意しなければならないのは、「首謀者,扇動者、傍観者」のいずれもが、逆に,いつ自分も④被害者にされるかわからないという危険があることです。ここに4つ目の問題があります。
(4)被害者は「生け贄」「偶然のスケープゴート」「身代わり」にすぎない。
「いつ自分が身代わりにされるかわからない」というリスクを前にして、イジメの行為に歯止めをかける「正義の味方」を演じられるものは、今の社会にどれくらいいることでしょうか。
そこで支配しているのは、論理ではなく、雰囲気であり、集団内の「空気」のようなものでしょう。KY(空気が読めない)ということが「鈍感さ」として攻撃されることも,実は,同じ「集団力学」に支配される経済社会の病理の一端を現しています。
実は,「イジメられる根拠は何もない」のです。たまたまイジメが始められ、いつしかそれは自分のコンプレックスを原因と思いこまざるをえない状況に追い込まれ、さらにそのコンプレックスを周囲に知られるや、またまたそれが理由づけとなり、ますますイジメられる、という展開が続くのです。
イジメ集団には、何の原理、原則もない。ただ誰かを「身代わりに」「生け贄」に仕立て上げることだけを目的関数とする集団です。だから、これに立ち向かうことは、その集団に所属する者にとっては「原理的に不可能」だとの言い訳さえなりたちます。
まるで悪魔に操られる集団ではないでしょうか。そこには一切の正義は認められません。誰も自分の行為をコントロールできない。集団力学に左右され,イジメる根拠となるような積極的原因は何もないから、正義もない。あるのは悪魔的な残虐性だけです。
l 「個人主義」が「個性を喪失させる」パラドックス
自分のアイデンティティとは何か、というとき、少なくとも今は「イジメられていない」「イジメを傍観している」「結果的にイジメに加担している」「ただ無性にイジメてしまっている」だけなのでしょう。しかもその立場はいつ入れ替わるか、誰にも予測できないのですから、アイデンティティや個性と呼べるようなものは誰も持ち合わせていません。誰も「自分の信念」を育てられないのです。
無意識にイジメに加担している教員も、実は「教員」という立場を辛うじて演じているだけの、匿名集団のひとりにすぎないといえるでしょう。
そして、イジメられている側も,この集団力学に支配されている以上、自分の人格,自らのアイデンティティが育てられていないことがわかります。
以上の見解は,98年のNHKの番組を見ながら考えたことです。
当時の番組の中で,イジメ被害者である生徒たち、その発言はあたかも「ひとり」の同じ人間の感じ方、考え方かのように類似し、没個性化したものに見えました。イジメの加害者である生徒たちの発言を聞いても、そこには何の根拠もない。身勝手で、相手の気持ちを無視する「悪魔的な妄想」にだけ捕らわれている、という印象を受けたのです。そこにも何ら人格性やアイデンティティは感じられません。
そこから私が見たものは、イジメとは「悪魔的な空気に支配された集団力学」であり、その集団には何のアイデンティティも、独自性もないということです。
彼らは、目に見えないストレスのはけ口だけをもとめているのです。何も考えずに、せめて自分は「生け贄」にされまいと、集団に振り回されている、没個性的な、それでも自分のことだけしか頭になく、それが「個性」だと誤解しているのです。
まさに,現代の経済社会にいる,大多数の「われわれ」ではありませんか。
l 「個性」や「自由」だけを土台にした教育の誤り
学校教育の舞台では、これまで「個性をのばす教育」がしきりに追求されてきました。画一化された受験戦争に対して、ひとりひとりの「個性」を大事に、大事に、育てましょうと訴えられてきたわけです。
しかし,その「個性」さえ、市場経済における「商品」のように一定の規格をクリアして、その枠内での「個別性」「製品としての特徴」にすぎません。「教育現場の役割」は、個性、個別性の追求のすえに、社会的な規範や秩序、精神を否定し、徹底した「個人主義」と「個人の自由」を教え込むだけの結果に終わっています。だから,イジメがますます広がるのではないでしょうか。
l 本当の「自由」と何かを今こそ考えなければならない
イジメを許さない,勇気ある自由。
自分の信念を貫く,失敗を恐れない自由。
他者の評価に惑わされない,自由な精神。
「ここ,今」を大切に生きる自由。
本物の自由を獲得するための「生き方」が問われている時代だと思います。
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